『あいたかったよ』
エルジビエタ作 こやま峰子訳
朔北社 2000年4月
読み聞かせをする。「せんそう」という言葉が出てきたら数えてね。「せんそう」のことばがどう使われたかを、カードにしておく。大人が使う言葉にフロンフロンはどう反応したのかを考える。すると明らかに大人とずれていることがわかる。
「せんそうってどこにいるの」
「ぼくがせんそうにおねがいをしてくる。」
せんそうは、ひらがなで書いている。全く戦争ってなんだろう。この家族の会話だけ
で考えても、「戦争」が何か判らないうちにはじめていくことの愚かさが見えてくる。その上で、絵と文をばらばらにしてパネルを用意し子どもにわたす。2つのペアがどこで結ぶのかを一斉に「あいたかったよ」といいながら探すのである。そのあとでならびかえをしていく。最後にもういちど。あっているのかを隊かめて、円をつくって自分たちのパネルを順番に読んでいく。3月、新聞社から電話の取材があった。ロシアのウクライナ「侵攻」について、子どもたちはこの戦争にどう向き合っていますか、だという。子どもの前に大人はどうなのかということが曖昧だということ、その中で戦争の開始をみんなが実況中継していることを、全うに子どもが言うには「なぜ、とめれないのか。」ということだと。それはイラクへのPKO派遣に名を借りた介入やアフガニスタンの戦争を含めて、その都度同じような感覚を味わってきた。イラクへの開戦は教室で見ていた。子どもは「パパが言ってました。ブッシュはうちの犬より悪いって。」と。どちらがいい悪い、どちらにつくかだけでものを考えるなら、少なくとも開戦時までは「戦争をやめて」が圧倒的な子どもの声であった。それはかき消すような報道が進んでいく。命を奪われるのである。コロナの感染が明らかになり始めたときに子どもはこういった。「チューゴク人がコウモリを食べるから悪いんだよ。」と。「平和教材」「戦争教材」というもので授業をしてきたので多くの子どもたちは「せんそうはんたい」である。それでよいではないか。しかし、3月の時点で子どもたちは、「ロシアが悪い、キタチョーセンもチューゴクも悪い。」といいはじめた。これは今までとは違う子どもの姿ではないかと。新聞の取材は結局何も載らなかった。子どもはこんなjに心を痛めています、という記事ではないからだろう。子どもは心を痛めている。ウクライナもロシアもコロナ禍であろうことも気づいている。こやま先生はフランス語から訳されたという、英語版ではないという。私は、英語とフランス語版を手に入れた。フランス語版をもとにした動画がYouTubeにある。全世界の人々にこの本をおすすすめする。「子どもはせんそうをしない」の意味をかみしめる。(佐藤広也)
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